週刊ガスキー

毎週更新(大嘘)

三国の唄 kiss×siss 18巻 109~110話 感想

「そりゃあもちろん、漏らせるっていうのなら、ちゃんと漏らせたいと――思う」
 
 深く考えることもなく、私はそう答えた。自分にそれ以外の返答があり得るなんて 思いもしなかった。
 その件について深く考えることをやめたのは、もう大分昔のことだった。たしかに数ヶ 月前の私ならば、その返答に迷いはなかっただろう。

 だが現在の私にとってはどうなのか? 今になってそう望むことが何を意味し、私と 尿意に何をもたらすのか――そう考えだすと、たちまち自分の本心がどこにあるのか 解らなくなってしまう。
 尿意に急かされて出した回答は、そんな心許ないものだった。

「そう……うん、そうよね。当たり前よね」
 
 そのとき尿意が見せた表情は、哀しむような、それでいて何か安堵したかのような 、どちらにも取れる不思議な微笑だった。その笑顔を見た私はにわかに不安になっ た。まるで私の軽率な一言が、どうしようもなく尿意を傷つけてしまったかのような気 がした。
 
「なぁ、尿意、私は……」
「いいの、三国。もう何も言わないで」

 尿意は私の言葉を封じ込めるようにまた唇を重ねて、さっきまで以上に情熱的な 舌使いで私を求めてきた。その甘い舌の感触に私は陶然 となる一方で、大切な一言を――さっき尿意に遮られた肝心な言葉をどうに かして口に出そうと、焦りを感じ始めていた。

「尿意――」
 
 どういうわけか――言葉が出ない。思考がうまくまとまらない。尿意のキスがもたらす陶酔が唇だけでなく全身へと染みわたり、私の意識をぼやかしていく。

「おやすみなさい、三国」
 
 優しく囁きかける尿意の声が、どこか遠くから聞こえてくる。
 
「心配しないで。次に目が覚めるときには、何もかもが終わっているから」

 それは、困る。
 眠る前に、君に告げなきゃならないことがある――せめて一言だけ――
 むなしくそう念じながらも、私は深い忘却へと誘われていった。

 目が覚めたとき、まず感じたのはアンモニア臭だった。
 住之江君の背中にはシミが広がりはじめ、その匂いはごく当然のように、アンモニアの匂いだった。たしかに私にもそう嗅ぎ取れた。
 夜はすでに明けていた。差し込む夜明けの明かりの中に、尿意の姿はもう見あた らなかった。

 おしっこまみれの床さえ見なければ、あとは幼い頃から見慣れてきた我が家のお風呂。それに引き替え、昨日まであれほど心安らぐ色合いに見えた居間の彩色を今になって改めて見ると、私には今まで遠ざかっていた世界との距離が痛感できた。

 無駄と知りつつ、私は尿意の姿をもとめて家中をうろつき廻った。小一時間ほども そうやって、現実を受け入れまいと無駄な努力を続けた。

 それから理性に電話した。受話器の向こう側からの声は、思わず涙が出るほど懐 かしかった。尿意以外に聞く欲望の声は本当に久しぶりだった。

 後で知ったことだが、住之江君は私に放尿される前に自分の陰毛を見ていたらしい 。その辺の順序は解ってもらえず、私は住之江君の股間を掴んだ容疑で逮捕された。さ らに私の隣で自慰を働いた後輩に唆され、結局ドスケベ設定が追加されたオチで落ち着いた。

 取り調べに対し、私は正直に正確に、ありのままを話した。理性さんたちはもちろ ん信じてくれなかったが、後から来たぢたまの先生は、私のことを信用し、私をトイレよりもっと清潔な白い部屋に移してくれた。

 そう、この部屋の白さが、ごく普通に私には真っ白く見える

 結局、私には罪を償うことができないという結論ですべてが片付けられてしまったら しい。
 私が体験してきたことは確かに現実だ。が、それはこの部屋の外の世界とは折り 合いのつかない現実なのだ。だから先生はこの小さな空間を切り分けて、私だけの ために与えてくれた。私が私の現実を生きる場所として。

 哀しいが、仕方ないことだと思う。より大勢の人が信じる大多数の現実で、この世 界は成り立っている。その枠からはみ出た場所に私は踏み出してしまったのだ。
 今、たしかにこの部屋の壁は――白い。その事実だけに感謝して、私はこれから の一生涯を送る。

 尿意なんていう欲望はいなかった。と、誰もが口をそろえてそう断言する。それなら それでいい。彼らの世界には本当に尿意は存在しないんだろう。
 だが私一人しかいないこの部屋でなら、私は尿意の声を聞いてもいいんじゃない だろうか。ここは私だけの現実――尿意とともに過ごした、たしかに現実だったあの 日々と地続きの場所なんだから。

 そう思って待って、待ち続けて、どのくらい経ってからだろうか。
 
 ある夜、私は廊下の床を何かが這いずる音で目を覚ました。
 普通なら眠りを妨げるような音ではないのだろうが、その夜の私には予感があった んだろう。いつもより浅い眠りの中で、彼女の気配を待ち受けていた。だからすぐに 判った。

「尿意なんだね?」
『……』
 
 答えはない。だが扉の外からはたしかに、何かと葛藤するような彼女の気配が伝 わってくる。
 
「ねぇ、どうして声を聞かせてくれないの?」
『……』

 ためらうような沈黙の後、扉にある細い覗き窓から、小さな器具が差し入れられた 。

 携帯電話。メモ帳機能が選択され、液晶画面にはいま入力されたばかりのテキ ストが表示されている。

『わたしの声、
きっと変に聞こえるから』

 私はつい可笑しくてクスリと笑った。尿意でも、こんな風に恥ずかしがることがある なんて。

「そんなこと、私はぜんぜん気にならないよ。君の声が聞きたい。姿が見たい」
 
 そう言って、覗き窓から電話を返す。しばらく間があってから再び電話が差し込ま れた。

『あなたが憶えている姿の尿意でいたい。お願い。許して』

「……そうか」

 うすうす察していたことだ。
 すべてが歪んで目に映る私に、ただ一人まともな姿で見えた尿意。私は彼女だけ が特別なのだと思っていた。
 だが実際は――その特別の意味合いが違っていたんだろう。彼女だけが特別に 歪まなかったのではない。歪んだら逆に普通に見えるような、彼女だけがそういう特 別な姿をしていたのだ。

 尿意の本当の姿は、私が知るのとは他にある。今の私にならそれが見えるだろう。
 だが当の尿意が嫌がるのなら仕方ない。女の子のそういう心理は、私だって解ら ないこともない。ちゃんと酌んであげるべきだろう。
 
「あの日、君に言おうとしてたこと――保留になってたの、憶えてる?」
 
 問いかけてから、また携帯を返す。

『もう忘れてくれてると、
思ってた』

 戻ってきた液晶画面のテキストに、私は苦笑した。そんなに薄情な奴だと思われ ていたんだろうか。
 
「忘れたりするもんか」
 
 その先を言うのは……誰も聞いてはいないだろうが、さすがに恥ずかしい。今度は 私も携帯電話のテンキーを操作し、かな文字を入力した。

 も――
 ら――
 さ、し――
 た、ち、つ、て――
 ら、り、る――
 変換、確定――私は覗き窓の外に携帯を返した。

 扉の外で、何かが震えるような気配があった。
 音が聞こえたわけでもない。その様が見えたわけでもない。それでも私には、なんと なく解った。……尿意は泣いていた。声を殺して。

「……私は、構わなかったんだよ」
 
 今さらそんなことを言ったって、何の慰めにもならないかもしれない。
 だが私は――そう、構わなかった。
 もとの設定に戻りたい気持ちもあるにはあった。だがそんな願いは捨てたって良かっ た。どこまでも尿意と一緒に、たとえ禁じられた領域にまで踏み込もうとも、手を取り 合って進んで行けたと思う。

 尿意だって解っていたはずだ。私の覚悟を。あの日の私が何を言おうとしたか、判 ったからこそ制止したんだ。その一言を聞いてしまえば後に戻れなくなっていたから。
 そうなる前に、彼女は全てを終わらせて、そして私の前から去った。

『ごめんなさい。
わたしは、意気地なしだった』

 差し入れられてきた携帯の画面を見て、私はかぶりを振る。
 
「君だけが悪いんじゃない。あのとき私に迷いがなければ、君だって勇気を出せた。 そうだろ?」

『あなたが、怖かった。わたしのせいで変わっていくあなたが』

「仕方ないさ」
 
 仕方ない。尿意は私を奪い尽くすことが、私はすべてをなげうつことが、お互いにできなかった。私らは二人とも、幸せになるには弱すぎた。

「尿意は、これからどうするんだい?」

『また北海道に先生を捜す。あの人なら、わたしを還す方法を知ってるはず。わたしの、もとい た場所に』

「そうか……帰りたいんだね? 尿意は」
 
 声と文字とで交わす会話に、少しだけ間が空いた。その間のうちに何度、頭の中 で「Yes」と「No」を繰り返すだけの時間があっただろうか。

『うん』

 ようやく戻ってきた携帯電話の文字は、妙に心許ないものに見えた。
 
「そうか。先生、見つかるといいね」

『がんばる』

 別れの時だった。彼女は道を決め、私はそれを祝福した。その先に言葉は必要な い。

「もしも気が変わったら……私はずっとここにいるから。いつでも来ていいからね」

『うん、ありがとう。
     さよなら、三国』

 最後のテキストを見届けて、私はそのまま携帯を外に戻した。
 
「さよなら、尿意」
 
 返事をするように、ぺたぺた、と優しく扉を叩いた後、またずるずると床を這う音が 廊下を遠ざかっていった。
 
 そして夜の静寂の中に、独り、私は取り残された。

 その日以来、私は待ち続けている。

 尿意は本当に、還るべき場所に還ったのかもしれない。
 もしかしたら恋路の行方を捜し続けて、今日もまだ何処かをさまよい歩いている のかもしれない。
 辛いだろうと思う。寂しいだろうと思う。

 もしも孤独に耐えきれなくなり、挫けそうになったときには、きっとまた私のところに戻 ってくるだろう。
 彼女に優しい言葉をかけて、慰めてやれるのは、この私しかいないんだから。

 だから私は待つ。彼女の声を、面影を、夢に見ながら待ち続ける。
 
 この白い私だけの世界で、いつまでも。

 

 

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